『で』は日本語の地雷ワード。たった1文字なのに受け取る意味がガラッと変わるの、日本語の悪いところであり、風情だと思うんだよね。って、話~【雑談】~



やっほやっほやっほやっほ\( 'ω')/
ハイネケンキメてる?🍻 
愛に生き愛に狂い愛に翻弄されし愛の迷える子羊、犬、猫、ペンギン、人間、この世に生きとし生けるもの全てを愛したい(とは思ってるしむしろ全員私を愛せ)令和3年目の大天使兼救世主兼心の恋人、笹森あきです🐧


久しぶりの更新ですが言及することなくシレッと更新します。
当ブログは細く長く(月一更新目標)続けて行くことを心情にしています。
(嘘です。今後はちゃんと定期的に更新します (小声))

突然ですがご挨拶です。
4月24日、4月25日に行われた私が所属するTEAM909の番外公演vol.2『夢も希望もないなら弾丸だけ握りしめておけばいいんじゃない?』、無事終演しました。
ご来場頂いた全ての皆様、ほんとうにほんとうにほんとうにほんとうにありがとうございました!!!!!! 

  
このご時世、劇場までご来場頂けると言うのは、本当に幸せなことです。
予告を見てくださった方、ギリギリまで来場を迷って下さった方も、ありがとうございました! 
どこかのセリフ、どこかのシーン、なにかひとつでも、観て下さった方の心に何かしらの傷を残せていたら幸いです。
  
※公演後の熱に浮いた各キャラへの考察や演じた入間金子ちゃんへのラブコール、作品への愛等を綴った記事が下書きで眠っているので、見せられるように推敲してから改めて載せようと思います。こちらも気になる人は後ほど読んでくださると嬉しいです。


…さて!!

5月到来。私の季節です。


なんてったって笹森は5月生まれだからな!!!!!
今年はちゃんと幸せになって、その幸せパワーを人に返せるようになりたいです。

年齢を重ねる事にあまり喜びを感じなくなったのはいつからだろうな。
子供の頃は早く大人になりたいと思っていたけど、大人になるに連れて大人マジ難しい〜〜となる毎日です。   
とはいえもう夢見る少女じゃいられない年齢になってしまって来ているので、今年こそは立派な自立した可愛くて綺麗で色っぽくて最高に面白いお姉さんになれるように頑張ります。

笹森最高の1年にできるよう頑張ります。





はい。



本日は雑談カテゴリーの更新です。
安定のチラ裏案件話ですが、笹森の笹森たる所以の根本みたいなことを先日感じたので、どうせなら残しておこうかなと思い更新を決めました。
てなわけで。
本日の雑記テーマはこちら。

『日常における接続詞の使い方、些細なようですげぇ大切だよね。』


です。いえーーーい。

タイトルでお察しって感じですが。
また一つ私の面倒臭さを世間に晒すことになりますが、似たような話をたまにSNSで見ることがあるので、全く理解できないって人ばかりでは無いはずだと信じています。
少しでも共感を得られたら幸いです。


そんなまえがきを残しつつ。
本編に入っていきたいと思います。




おおむねタイトル通りなのですが、日本語における接続詞『で』って結構地雷ですよね。
程度に差はあれど、誰もが人生で一度くらいは人と話しているときに「『で』ってなんだよ…。」と思ったことがあるのではないでしょうか。

いやこの言い方だと足りないですね。

正確に言うと、「〇〇と☆☆どっちがいい?」とか、「今日はどこ行きたい?」などの質問をした時などに『で』を使われると、ですね。



わかりやすい例なので、「君がいい」という言葉を例にお話していきます。
お仕事先や恋愛関係、たまにお友達にも言ったりするかな。
まんまじゃなくても似たニュアンスの言葉を聞くこと、言うことは日常でもあると思います。

まずは良い方から。
君『が』いい、という言葉の場合。
言い換えが君じゃなきゃダメ、という前向きな答えになりますね。
貴方だけだ、貴方しかいないという意味、シチュエーションにも寄りますが(ここ重要)、言われて嫌な気持ちになることはあまりないと思います。

でもこれが、 
君『で』いい、となった場合。
いや代わりおるんかい!!!妥協かよ!
…ってなりませんか?
たった一つ文字が変わっただけで、じゃぁそれって私じゃなくても良いんじゃない?、となってしまいますよね。   

これと似た話に、「今日の晩御飯」の話なんかがよくあがりますね。

「カレーがいいな。」は別段気に触らないけど、
「カレーでいいよ。」はなんかイラッとする、みたいな。
 
日本語って不思議ですね。

少し言及しますと、これらの場面での『で』、という言葉の背景には、必ず比較された何が存在しています。
過去か人か物か思い出か、まぁそれは言った本人にしかわかんけど。
それらを比較した末の答えが、この『で』に集約されているのです。
つまり妥協以外の何物でもありません。

そういう、言葉と言葉を繋ぐちっぽけな接続詞のせいで、人は食い違いを起こしがち。

零したら最後、弁明は無意味なんですよね。
不意に『で』を零した本人は「そんなつもりなかったのに…」と思うのに、受け取った方は「何その言い方?」とどうしても引っかかってしまう。
多分何も考えず零れた『で』だと分かっているのに、分かってはいるのにどうしても「普段から思っているからそういう言い方になるんでしょ」と解釈してしまう。
だからどんなに違うと説明されても「う~~~ん……そっか☆」みたいに都合よく納得出来ないし、納得したとしてもなんかモヤッとした気持ちは残る。

私も実際、例の『で』のような言い方をしてしまうことがあります。
それを言ってしまったあとのなんとも言えない相手の顔を見て「うわやっちまった…」と頭を抱えることがしばしば。
同時に、『で』を言われた時には、多分感じすぎなくらい
「なんなのその言い方?なんかそれっぽく弁明してるけど普段思ってなかったらそんな言い方にはならないしそもそも咄嗟にでたってことはそれが本音じゃん。つまり深層心理では(以下略)」
とか思ってしまうので、つい言ってしまった時、相手がその瞬間目の前で⬆みたいなことを思っていると思うと、正直気が気じゃないです。言った方なのに結構引き摺ります。
被害者面です。
私が右京さんなら確実に
「恥を知りなさい!!:( ‘ᾥ’ ):」

って言ってる。

だから相手の為にも自分の為にも極力、というか絶対(気持ちとしては)言わないように気をつけてるんだけど、まぁ気を抜いてるとやっちまうんだよな。

そんで自分がされた時みたいに「本当はそうじゃないんだよ」って弁明するんだけど、「これ多分何言っても納得してくれないだろうな…」と諦める気持ちも半々…みたいな。

マジ引くほど悪循環〜!!!!

と、ここまで色々書きましたが。
これを分かってくれる人も居れば、「この人マジ何言ってんの面倒臭い!」っていう人がいることも分かっているんです。

そういう人達は口を揃えてこう言います。
そういう細かいことに必要以上に拘ったり考えたりしてるから、生きづらくて苦しいんじゃないの?、と。

正直そういう方々には「じゃぁそのこだわりの捨て方と上手い生き方を教えてくれよォ!」とキレ散らかしつつ泣きながら懇願したいですが、そんなのただの八つ当たりだし、誰もが辛いのを我慢しながら一生懸命、死にそうになりながら生きていることも分かってます。 

分かっているんです。
分かってはいるんです。

でも、我慢と言う聞こえのいい言葉で、その時感じたそういう気持ちを無かったことにされたくない。

私は、みんなそうだから我慢するべき、もっと辛い人だっているのに、という、正論の皮を被った言論統制が嫌いです。
もっと辛い人の話なんてしてねえし知らねぇよって感じ。
気にし過ぎる事を正当化する訳じゃないけど、「気にしなきゃいいじゃん。」なんて雑な言葉でその時感じた思いを風化させなきゃ生きられないなんておかしいって、そう思う事は罪なのでしょうか。

思うだけです。きっともっと辛い人がいるという方が正論です。 
でも、その時感じた鮮度の高い感情をなかったことにする、受け流すのが大人なのだと言うのなら、たとえおかしいと言われても、私は一生子供のままでいいです。
思うだけは自由。でもその感情の行き場を他者に向けるのは違う。
だからこそ、どんな経験、感情も無駄にならないお芝居が、私は好きなのだと思います。

なんでこだわるのかを考えてみて思ったのは、言葉に傷付いて、傷付けて生きてきたからであり、それでも私をここまで生かしてくれたのもまた言葉だからなのだと思います。

言葉が無いと、私はきっと、心の中に煮え滾るヘドロのようなものたちを消化できずに溜め込んで、いつかそいつらがはち切れて、散り散りに汚い肉片を散らして果てていたと思います。
言葉があったから、ヘドロに名前が付けられて、それがどんな思いなのかを言葉に出来た。

だから私は、こうしてブログに言葉を残す時に、言葉に関する責任と覚悟を忘れないように生きようと思いました。改めて。



長くなってしまいましたが疲れてきたので本日はこの辺でおしまいにしようと思います。




とうとう緊急事態宣言がされてしまいましたね。
皆様もお体に気をつけながらステイホームを楽しんでください🏡
少しでもお家時間が充実することを願っております。


以上。
笹森でした🐧🐧

お休みなさい。
よいゆめを。

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ササモリモノローグ

お酒と水色とペンギンと、その他諸々好きな成人女性"笹森"の情緒がグラつきがちな日々の独白ブログです。脳内が1番饒舌。

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